エフタはギレアド人の父が身分の低い遊女に生ませた子だ。妾腹のエフタは他の兄弟に疎まれて家を追われたが、故郷を離れた彼の周囲には腕自慢の男たちが集まるようになった。
アンモン人がイスラエルに戦いを仕掛けてきたとき、ギレアドの人たちはエフタに助けを求めた。一度は追い出し、今度は救ってくれとは虫のいい話だ。だが「全ギレアドの頭に」という長老たちに従い、エフタは故郷に戻る。
彼はギレアドで軍を整えると、戦いを前に神にこう誓った。
「もし神がこの戦いに勝利させてくださるなら、戦いから帰った日に家の戸口を最初に出てきた者をいけにえに捧げます!」
エフタが戦いに勝利して家に帰ったとき、彼の一人娘が鼓を打ち鳴らし、踊りながら迎えに出て来た。エフタは自分の誓いを嘆きながらも約束通り娘をいけにえに捧げ、娘もそれを受け入れた。
エフタはエフライムとの戦いにも勝利し、その後6年間、士師としてイスラエルを裁いた。
(士師記 10〜12章)
【解説】
古代イスラエル人が信じる主なる神は、人身御供を望まない神だ。古代の神々のならいで、この神も人間の犠牲を求める。しかしそれを、他の動物で身代わりにすることができたのだ。
例えばアブラハムは、神に命じられて息子イサクを神に献げようとした。しかしこれは直前に神自身によって制止され、身代わりの雄羊を捧げることになった。モーセの時代になると、イスラエル人は家畜であれ人間であれ、最初に生まれた雄や男の子を神に献げなければならなかった。だが一部の動物と人間については、身代わりとして他の動物を捧げることが最初から決められているのだ。
だがイスラエルの周辺の異民族は、相変わらず人身御供の習慣を持っていた。聖書はそれをおぞましい習慣として嫌悪し、何度も強い口調で非難している。イスラエルの人々からすれば人間を生け贄に求める神はまがい者であり、人身御供は野蛮で罪深い偶像崇拝だった。
にもかかわらず、エフタは自分の娘を神に献げる。アブラハムの時と違って、神はこの残酷な行為を止めなかった。考えてみれば、アブラハムに息子を捧げろと命じたのは神だ。だから神は自分が下したその命令を、自分で取り消すことができた。しかしエフタは自分自身の自発的な意志で、神に対して人間を捧げると誓いを立てた。それを神が取り消す筋合いはないのだ。
それにしても、エフタは誰が自分の家から最初に飛び出してくると思っていたのか? 娘だと思わなかったなら、誰だろう? この物語はエフタと娘にとってはこの上もない悲劇だが、彼の誓いによって別の誰かが犠牲になるならそれは別の悲劇だろう。エフタは自分の誓いの報いを、自分自身で受けたとも言える。エフタの娘にとってはひどい話だ。この悲劇の娘については、聖書に名前さえ記されていない。それもまたひどい話だ。
エフタは士師として名を成した。だが人々が記憶するのは、この名高い士師の、名もなき娘の悲劇なのだ。