モーセへの反逆

Punizione dei Ribelli

 イスラエルの人々はシナイを出発したが、彼らは神が毎日与えるマナに飽きてエジプトで食べていた肉や魚を恋しがった。神はうずらの大軍を宿営に送って肉を手に入れさせたが、直後に疫病が流行して多くの人が命を落とした。

 約束の地カナンが近づき、モーセは現地に偵察隊を送り込んだ。そこには豊かな土地があったが、町は城壁に囲まれ、住民たちの体格も大きい。偵察隊のヨシュアとカレブはカナンを攻め取ることを提案したが、他の大多数は戦いを恐れて尻込みした。

 レビ族の有力者コラは、仲間と共にモーセたちの指導体制を批判した。彼らは口を開いた大地に飲まれ、これに動揺した人たちも疫病に倒れた。神は人々の前で、アロンたちを改めて民の指導者に選んだ。

 人々がカデシュに滞在していたとき、水がないことで人々は不満を言った。モーセとアロンは目の前の岩を打って水を出した。間もなくアロンは亡くなり、息子のエルアザルが仕事を引き継いだ。

(民数記 9〜20章)


【解説】

 イスラエルの人々は、必ずしも敬虔な人々ではなかった。苦しいときは神頼みもするし、神との仲介者であるモーセに喜んで従った。だが困難な時が過ぎ去れば、不平不満の大合唱でモーセたちを苦しめるのだ。エジプトでさんざん苦しい目にあっていたくせに、やれ食べ物がない、肉が食べたい、水がない、これならエジプトで奴隷をしている方がましだった……。過去の苦しさを忘れ、目の前にある困難に立ち向かう気迫がない弱い人たち。あまりにも情けないその姿は、なんと我々自身に似ていることか!

 そんな人たちの中から、共同体の改革を訴える声が現れた。イスラエルは全員が等しく神に選ばれた聖なる人々だ。モーセたちはその上に立って指導者となっているが、彼らだけに権限を集中させるのはよくない。約束された土地になかなか入れないことで、人々の間には不満も高まっている。これらの声を拾い上げて、共同体全体の運営に反映できる仕組みを作るべきである。

 そう言ってモーセに逆らったコラ、ダタン、アビラムらが、具体的にどのような共同体の運営を目論んだのかはよくわからない。「運営を民主化せよ」とまでは言わぬまでも、「独裁的で独善的な運営を改めよ」という要求だったことはわかる。「もっといろいろな人たちの話を聞け」という要求だ。現代の我々にはもっともな訴えにも思えるのだが、しかし神はそれを認めなかった。

 このエピソードから、どのような教訓を引き出すべきなのだろうか。危機の時代に大きな事業を行うには、特権的な強い力を持つリーダーの存在も必要だという意味か?

 モーセの物語が現在の形として完成したのは、ずっと時代を下った王朝時代以降のことだった(捕囚後という説も有力だ)。「神に与えられた権力」こそが正当なものであり、それを否定することは神に逆らうことであるという教訓的な物語が、民数記が最終的に編集された時代には必要とされていたということなのだろう。

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